開拓

挿絵

十勝(とかち)の開発は、明治(めいじ)19年1月の北海道庁(ほっかいどうちょう)の開設(かいせつ)から順調(じゅんちょうに)に進(すす)み始めましたが、士幌町で本格的(ほんかくてき)に人々の生活(せいかつ)が始まったのは、明治(めいじ)31年3月のことです。

岐阜県(ぎふけん)で設立(せつりつ)された美濃開墾合資会社(みのかいこんごうしがいしゃ)の一行が同じ年に中士幌へ行き、山や林を切り開いて住(す)み始めました。

手つかずの森や林が広がっていて切り開くのは大変でしたが、あきらめずその土地を畑にしていきました。

美濃開墾合資会社(みのかいこんごうしがいしゃ)は、岐阜県(ぎふけん)の濃尾大震災(のうびだいしんさい)とたびたび起(お)こる水害(すいがい)に困(こま)り「北海道で成功(せいこう)を目指(めざ)してがんばろう」と、十勝(とかち)にやってきました。

そのとき岐阜県(ぎふけん)は、士幌へ移(うつ)り住(す)むことをすすめていたので士幌へ行く人が多かったようです。

その8年後には、音更町の川のまわりに家が百件も建つほどの広さの土地が切り開かれたのでだんだんと人びとが移(うつ)り住みました。

そしてそこに住み始めた人たちは中士幌の人たちと共に士幌が大きくなるために力を合わせ、そのあとそれぞれの村に分かれて、大正15年に士幌村という名前になりました。

昭和(しょうわ)37年には「村」から「町」となり、士幌町となりました。

昔の人は森だった士幌の土地をいっしょうけんめい木を切って土地を起こしたジャガよ。

貧しい農村から先進的な農業地帯へ

挿絵

士幌町は人びとが移(うつ)り住み農業を始めてから大きく成功してきましたが、豆類を中心とする畑作ではたくさんとれる時と全くとれない時があり、村はとても貧しかったです。

村に住む人々の貧しさは昭和(しょうわ)30年ごろまで続きました。

しかし現在、士幌町は農業で成功した地域(ちいき)として全国で有名になりました。

昭和10年代、士幌町に住む青年たちは士幌町の農業がどうしたらもっと良くなるのかということを真剣に話し合っていました。

その青年たちの中心にいたのが、秋間勇氏、飯島房芳氏、太田寛一氏などでした。

彼らは「もしこの世にユートピアがあるとするならば、士幌にそれを実現(じつげん)しよう」と約束しました。
彼らは自分たちの力で士幌の農村を豊かにしようと考えました。
まずは、「農作物(のうさくもつ)を作るだけでなく、それらの加工から販売までを他の人に任せずすべて自分たち農民が行う。そうすることでたくさん所得(しょとく)を得ることができる」と考えました。

そして「産業組合(さんぎょうくみあい、(現在の農協))はこれに協力するべきである」とし、この考えに賛成(さんせい)する青年たちが増え、戦後、彼らが力を合わせて士幌という町を作り上げていきました。

士幌町の農業を大きくしていくために、機械を使って大規模に行ったり、作物転換(てんかん)や畜産(ちくさん)の導入(どうにゅう)による寒地型(かんちがた)農業、そして付加価値(ふかかち)農業を推進(すいしん)すべく農村工業を取り入れたりなどしてきました。特に農村工業を取り入れることによって農業生産がとても盛んになるだけでなく、人びとが働ける場所が増え、それによって人口が安定し町が発展しました。

挿絵

農業の機械化のおかげでジャガイモンの友達がたくさんできるようになったジャガよ。
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